エッセイ

独り街をさまよえば

先のこと。独り暮らしだというおばあさんが、わたしの店に来た。ある品を見て、申し訳なさそうに、「年金暮らしでお金がない。次にもらえるときにこれをください。必ず来ますから」と言った。二度目の来訪だった。最初のとき、目を輝かせて、興奮してみていた。「いつでも、いいですよ」と、わたしは言った。
わざわざ、二度も訪ねてくれたおばあさんは、だが、それ以来、姿が見えなくなった。どうしているのかと、ときに思うが、そのとき、あの品が彼女を満足させてくれただけでいいのではないかと、思う。
独りでいるということに、何かのなぐさめが要ったのかもしれないが、心のどこかに美の断片が染み込んだのだとしたら、見られたものも本望だろう。

新型コロナウイルスの影響で、独りでいる時間が多くなった。家族を持っていれば、また違うのだろうが、「独り居」の暮らしの在り様は、孤独というよりも、時間はあるのだが、日々、暮らすという営みに追われて、瞬く間に浪費してしまった感がある。 洒脱に生きた小説家永井荷風のようになれるわけでもなく、米国の小説家メイ・サートンのように決然と「独り居の日記」を書くわけでもない。日々、掃除をし、洗濯をし、食事をし、歩いてみたことのない場所を散歩する。無人の金沢の街中をめぐり、誰も姿を見せなくなった空間を長々と歩いた。初めて通った家並の中で、人間という存在のわずらわしさを思ったり、大切さを感じたりと、人間社会を生きる一員として、いろいろと自省したかのようだ。 「ステイホーム」と、犬への「お座り」みたいにいわれた期間、誰もいない街で出会ったのは、姿を見せない犬一匹の鳴き声だけだった。徘徊している不審者に間違われてもしようがないが、人は姿を見せずとも、人間に寄り添う愛玩動物として面目躍如たるところと、感心したのだった。

ここに、忠犬かどうかは別として、犬の水滴がある。絢爛、自在な美濃桃山陶が衰退し、江戸時代初頭に、御深井(おふけ)焼と呼ばれる焼きものが出てくる。御深井焼と言えば、本来、名古屋城内の下御深井御庭に築かれた窯で焼かれたお庭焼を指すというのが一般的だろうが、美濃でも焼かれ、今日、灰釉を用いた焼きものは「美濃御深井焼」と称されている。 こちらを向いて尻尾をくるりと曲げ、行儀よく座って、鉄釉でまだら文様を付けられた犬の焼きもの。 小さなものだが、座辺に置くにはちょうど良い。美濃御深井の水滴の中でも、ぶちの犬は珍しい。陶工が犬を好きな人だったのかもしれない。文人に愛され、今日まで残ってきたものの一つだが、主が文机に向かうとき、片時も離れずにいたに違いない。用事を書きつける手紙か、恋文かは伺いしれないが、独り居のとき、その空間を満たしたのだろう。 独り居には、何か心を満たすものは必要か。ものに宿るものが、心の奥に同調すれば。 あのおばあさんも、今ごろ、独り、どこかを散歩しているかもしれない。三度目の来訪の前に。

黒谷誠仁(くろたに・まさひと) 玄羅(げんら)

「日本の美邸」より
https://www.chilchinbito-hiroba.jp/japanquality/?p=1044

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